このブログを開設してから、一年が経った。
それはつまり、彼女と別れてから一年が経ったということだ。
そしてもうすぐ、彼女と付き合ってから三年が経つ。
残暑なんてものを感じさせないデジタル管理の令和ちゃんによって、
僕はまたあの秋を思い出す。
あの文化祭を思い出すのだ。
胸が無性に締め付けられるくせに、
あなたと笑ったこと、話したこと、泣いたことを、僕はもう忘れてしまっている。
ただ、あの時の感情だけが残っていて、僕は愛おしく、その思い出を抱きしめる。
今年の一月末に、新しい彼女が出来た。
僕はなんだかんだで、さっさと彼女を忘れたのだ。
否、地層の奥底に沈めたのだ。
自分でも変わり身の早さに驚いたが、そもそもこの恋は恋になるはずではなかったのである。
しかし、今はそれは置いておく。
僕は彼女にもう一度会いたいだとか、話したいだとか、思っていない。
あわよくばまだ好きでいてくれるかもなんて、微塵も思っていない。
そういう別れ方をしたのだから。
それは、新しい彼女ができて満足したから?
という訳じゃない。
僕は未だに、あなたのツイッターやインスタを毎日のように見に行ってしまう。
もうそれは執念とかではなく、まるで習慣のように。
しかし、リプやいいね欄まで確認している時点で、それは執念だったのだろう。
ただ、それは彼女自身への執念なんだろうか。
僕はもしかすると、彼女に預けた「自分」の欠片を必死に拾おうとしているのかもしれない。
僕は、二年近くの間、彼女の中で生きていたのだから。
「思春期特有の孤独感」というには、僕は少々人よりコミュニケーションが下手だ。
それ故に、多くの人と長い付き合いをすることができない。
それ故に故に、僕は孤独感に苛まれる。
人といるのが好きな性格ではないので、多くの人と付き合うと疲れる。
にもかかわらず、関係を切り捨てていった先に僕は、身勝手にも寂しいと宣うのだ。
ないものねだり、にしてもひどい。
とはいえ、この交友関係の狭さには、正直不満はあまりない。
問題が発露するのは、いつだって他人が絡むとき。
とりわけ、好きな人が絡む時だ。
彼女が僕より交友関係が広い時、僕はどうしようもなく劣等感を覚える。
そして、僕には彼女しか寄る辺がないのに、彼女には僕がいなくても平気に違いないなどと、直球メンヘラストレートなことを妄想するのだ。病気だ。
前の彼女とも、今の彼女とも、僕はこれで何度も間違いを犯している。
話が少しそれたが、普通、人は自分というアイデンティティを他者とのかかわりの中で見つける。
それは自分の性格だったり、個性だったり、役割だったり、客観的評価だったり、色々だろう。
しかし、他者との交流が乏しければ、自分というものは拡散していく。
だから、僕は彼女のアカウントを見に行ってしまうのではないか。
「彼女が好きだった僕」を忘れぬように、「かつて僕を預けていた彼女」を忘れぬようにしたいだけなのではないか。
僕は彼女の今を見て、知って、「僕を愛していた彼女」が喪失したことを思い知る。
そうして、僕は僕を慰めているような気すらする。
一つだけ確かに言えるのは、これは未練ではないということ。
僕は、時を巻き戻せない限り、彼女ともう二度と付き合うことはない。
天地がひっくり返っても無いが、彼女が僕に告白しても付き合わないだろう。
もう「やり直せない」と悟ったのだ。
なので、この習慣からもそろそろ卒業しようかと思っていたのだが。
少し良くないことが起きて、もう少しは無理そうである。
僕の恋愛は、僕の孤独が埋まらない限り上手くいかないのだろうか。
こんな予感が頭をよぎって離れないのだ。